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とっても気になるあの展覧会へ「行ってきました」

 

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○ 慰安婦像は、どうして お婆ちゃん ハルモニ ではないの(5/5)

慰安婦像は、どうして お婆ちゃん ハルモニ ではないの果せるかな、作者夫妻との面会は実現したものの、結局取材には応じてもらえていない。
夫妻は「私たちはただ慰安婦の話を広めたいだけなのです」といったきり、固くドアを閉ざしてしまったという。記者はソウル市から車で60分、事故現場に設置された黒い土台にのった自然石風の追悼碑の写真を撮っている。台には小さいながら、2人の少女の上半身写真(カラー)が嵌めこまれている。だがキム夫妻がもともと構想した追悼碑は、自然石風のものではなく、長方形のブロックを組み合わせた抽象的な造形物であったという。
「平和の少女像」を日本に差し向けられた批判の刃として、何とか排斥したいと考えている人々にとって、これは「それみたことか」とばかりにまことに都合のいい説である。だが、この話をそっくりそのまま真実と受けとるためには、やはりかなりの検証が必要だろう。まず顔の表情だが、シム・ミソン(沈美善)の父シム・スボ(沈洙輔)は、記者に対して「言われてみれば似ている。この記事をもらえませんか?」といったという。だが、似ているのはバサッと垂らした前髪と肩上までのボブカットだけで、顔の骨格は相当に違っているように私にはみえる。少女像はシム・ミソンよりはるかに丸顔でふくよかなのだ。しかもこうした髪型は韓国では珍しくなく、三つ編みとともに多くの女の子が普通にしているものである。またシム・ミソンの瞳は大きくまっすぐ面を向いているが、少女像のそれは細く、どちらかというと伏し目がちだ。(つまりグッと日本人風の顔立ちだと思われる。)
すでに述べてきた通り、ここでもなぜ交通事故を暗示する表現がないのかという点が気にかかる。アメリカや在韓米軍基地をそれとなく告発する箇所が、たった一つでもあればまだ納得できるのだが。衣裳にしても古めかしいチマチョゴリより、もともと2人が着ていた可愛らしい制服の方が世間へのアピール度は遥かに上だったろう。そして「平和の少女像」は、追悼・鎮魂の静けさを漂わせるばかりで、理不尽な状況への怒りのような熱い思いは、あまり感じさせないのだった。
こうした場合、ことの真相に迫るにはやはりキム夫妻の証言を得ることが、決定的に重要である。だが二人は固く口を閉ざしたまま、モデルがシム・ミソンだとも、そうではないともいわない。となれば、型通りのやり方で自分たちが好き勝手につくった、自分たちの心のなかの少女像だということに帰着せざるを得ないだろう。いまの状況では、どのみちこの話は振り出しに戻るしかない。ここで必要なのは偽りに満ちたインタビューではなく、夫妻がこれまでつくってきた作品群を眺め、少女たちの容貌に注目して少女像制作の由来を作品面から解きほぐしていくことだろう。もし無心につくられた作品が多ければ、美術品は意外とウソをつくのが苦手ないので、さして困難な作業ではないかもしれない。
それにしても韓国が、南北統一に賛同しない日本に対して苛立ちを募らせ、自らの願望への思いを一方的に膨らませていくと、もっとも弱い立場の美術がどこまで歪められていくかを、この作品ほど見事に証明した例は他にないだろう。例えば、空の椅子は具合が悪いとなればデコレーションを加速させ、ブロンズ像の横に彩色されたコピーらしきものを並べ、路線バスにもぎっしりと乗せ、安倍総理土下座像という珍手まで登場させてきているのだ。
高度な情報化社会にあって、美術アートはやすやすと従来のプロパガンダを超えていく。いまでは国際的なネットワークに依拠した謝罪・賠償請求タイプのデマンド・アートといったものへと、あっさり変貌してしまうのだ。(月刊『ギャラリー』2020年9月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より)

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○ 慰安婦像は、どうして お婆ちゃん ハルモニ ではないの(4/5)

慰安婦像は、どうして お婆ちゃん ハルモニ ではないの何かと不可解な部分が多い一方で、この像をいろいろな行きがかりから高く評価してきた人も少なくない。とくに韓国の人々にとっては、これこそキム夫妻が心血を注いでつくり上げたポストコロニアル・アートの最高傑作だと、無条件で受け入れたい気持ちはきわめて強いのだろう。彼らの驚くべき結束力によって、「平和の少女像」はソウルの日本大使館の前に置かれた後、2013年2月28日には早くも京畿道高陽市へと増設されたのである。
その後、同様の動きは急速にスピードアップしていく。翌2014年には慶尚南道巨済市、京畿道城南市、京畿道水原市に設置され、2015年はこれに慶尚南道南海郡や江原道江陵市などが加わるのだった。韓国内はもとよりアメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、中国、台湾、ドイツ、フィリピンとまたたく間に世界中へと広がっていった。
なかでも注目すべきはアメリカの地方都市だろう。戦時中アメリカに日本軍の慰安婦がいたとも思えないが、韓国系米国人たちの働きかけによってカリフォルニア州グレンデール市には2013年7月に設置されている。人権を重視するフランク・クィンテーロ市長の肝煎であった。ミシガン州デトロイト市、ジョージア州ブルックヘブン市などがこれにつづき、2015年9月22日にはサンフランシスコ市の市議会が全会一致で設置を採択している。
中心になって推進したのは、エリック・マー市議と中国系のリー市長だった。二年の歳月をかけ韓国人、中国人、フィリピン人の3少女が背中合わせに手をつないで立ち、遠くから元慰安婦の老女がそれを見上げる群像彫刻となっている。これは「平和の少女像」とは一応別物である。だが見知らぬ少女という「平和の少女像」の基本路線はしっかりと踏襲され、巧みに多国化させながら、なぜかやっと真相を胸に秘めたハルモニ本人を登場させてきたのだ。制作したのは公募で選ばれた英国出身の在米作家、スティーブン・ホワイトである。4人が力を合せて強い非難の意志を漲らせるなど、なるほどこれならば世界の人々に訴えかける現代の慰安婦像かもしれぬと思わせる、苦心の折衷型プロパガンダだった。
こうして慰安婦たちの人権回復を願う人々が、このところ非常に神経をとがらせてきたのは、ネットで際限なく流布されてきた〔ある噂〕についてである。「平和の少女像」は、米軍の装甲車に轢かれて死亡した女の子をもとにつくられたとする説だ。史実をたくみに織り込んだだけの他愛ないエピソードのようにも聞こえるが、文春オンラインをはじめとする権威ある出版社が関わっていたこともあり、その影響力は結構馬鹿にできない。
月刊誌「Will」2017年10月号は、シム・ミソンというかつて14歳だった少女の顔写真と、「平和の少女像」を並べて掲載している。文春オンラインなどの情報を総合すると「2002年6月13日、韓国北部の楊州市で友達の誕生会へ向かう途中に、54トンの米軍装甲車に轢かれて死亡した女子中学生はシム・ミソン(沈美善)とシン・ヒョスン」で、シム・ミソンこそ少女像のモデルであったいう。だからこそアメリカには設置できないのだという。
「Will」の記者は「彼ら(キム・ウンソンとキム・ソギョン夫妻)は、米軍の事故で亡くなった2人の少女たちの追悼碑の製作にも携わったそうです。夫妻はこれまで“オリジナル”をもとに国内向けに60体以上、海外向けにも8体の像を製作してきたそうですが、そのルーツが反米の象徴だったとなれば、おかしな話になる。仮に事実であってもいまさら認めることはできないでしょうが…」と幾分訝し気に語りながら、ソウル市近郊にあるキム夫妻のアトリエを訪れているのだった。(月刊『ギャラリー』2020年8月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より)

★★★★★


○ 慰安婦像は、どうして お婆ちゃん ハルモニ ではないの(3/5)

慰安婦像は、どうして お婆ちゃん ハルモニ ではないの「平和の少女像」にまつわる謎は多いが、その後キム・ウンソン(金運成)とキム・ソギョン(金曙Q)夫妻をはじめ、関係者たちの重要な証言もいくつか登場してきている。
例えば「Journalism」(2019年11月号)編集部のインタビューなどである。
ウンソン 少女像の素足のかかとが浮いているのは、故郷に帰れなかった人、帰っても定着する場所がなかった人の痛み、ハルモニの形をした少女像の影は被害者の痛みや悲しみの象徴で、影の胸の部分にある蝶は、亡くなった被害者が共にあることの意味だ。(中略)1945年の日本の敗戦と私たちの解放以降、各地にいた性奴隷の被害者である彼女たちの中には、どうにかこうにか韓国に戻ってきた人たちがいた。ところが、韓国社会ではその後、91年にキム・ハクスン(金学順)さんが慰安婦だったことをカミングアウトするまで、そのことがきちんと受けとめられてこなかった。その時間が46年間、つまり45年から91年。(中略)その女性たちに対して差別とか偏見とかがあった。
金学順(キム・ハクスン)ハルモニの苦労をそのままでは表現できないと思った2人は、平和のかたちとして韓国服姿の少女を作ることにした。(マガジン9編集部、2019/10/16)
ソジョン 影は、ハルモニの姿になっています。少女の時代に動員され、謝罪を受ける
ことのないまま年を重ねたハルモニの悲しみを表現しました。肩に乗っている小鳥は、平和と自由を象徴し、いまもこの地でたたかい続けているハルモニと亡くなって天にのぼったハルモニをつなぐ絆です。(中略)被害に遭った当時、朝鮮の女性は長い髪を三つ編みにするのが一般的でしたが、あえて短く、毛先のそろっていないおかっぱ頭にしました。
それは大切な家族や故郷から無残に引き離されたことを意味します。当初そっと重ねようと考えていた両手は、日本政府が建立を妨害していると聞き、ハルモニのたたかいを表す握り拳にしました。擦り切れているはだしの足は、彼女たちの歩んできた人生の険しさを表しました。(しんぶん赤旗電子版、2019/8/28)
日本統治下の国の少女が従軍慰安婦から解放されて帰国してみたら、故郷はすでに大韓
民国になっていて、そこでひどく冷遇されたという入り組んだ話である。幼子イエスをもって後年の辛苦まで表してしまうやり方を思わせるところもある。床から少し浮いた足の踵に、社会のなかで居場所を見失った悲しみと告発の意味を込めるなど、日本ではなかなか想像のおよび難い部分でもある。これは植民地化された国に特有の恨(ハン)表現なのだろうか。
というより日本人には分からないままに、ひっそりと育まれてきたメタファーであろう。いずれにしてもここで、従軍慰安婦なる存在は韓国社会において1991年までは認知されていなかったという事実が明らかにされている。「日本軍慰安婦被害者をたたえる日」が韓国国会で可決され、国内外の差別が正式に宣言されたのは2017年11月24日だから、慰安婦像もごく自然に考えれば、やはりきわめて近々の創作物ということになるのだろう。
一方ハルモニの形をとった影や、そこに組みこまれた(援助基金名でもある)蝶、肩にとまる小鳥といった表現は、日本でも時折みかけるものである。2019年の日展でいえば山本眞輔氏の「黎明の祈り−智−」が、やはり左肩に小鳥をのせている。題名に「祈り」とあるように、何かを一心に祈る乙女を表したい場合に用いられる手法のようだ。この辺りの細かい技術については日本特有の匂いも感じられる。東京美術学校など和製アカデミズムの波紋が微かに及んでいる気がしないでもない。(月刊『ギャラリー』2020年7月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より)

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○ 慰安婦像は、どうして お婆ちゃん ハルモニ ではないの(2/5)

慰安婦像は、どうして お婆ちゃん ハルモニ ではないの終戦から66年経った2011年の時点で、従軍慰安婦に関する説得力のある写真・画像資料をいくつか手に入れようとしても、きわめて困難であることは目にみえている。従って、日本大使館のまえに置く慰安婦像を制作するよう依頼された作家たちが、取材した場所(国・地域)や時期を、当然のごとくにきびしく吟味されるであろう生々しい「記録像」をつくることを早々と諦めたのは、だいたいにおいて察しのつく成り行きである。
だがそのついでに、お婆ちゃん(ハルモニ)たちのいまの姿を表すというごく順当な行為まで、あえて避ける必要はなかったのではなかろうか。そのために見知らぬ少女の顔や姿を自前で創作してしまうという、どう考えても根拠の定まらない空想を背負いこんでしまうと、かえって混乱の種をわざわざ自分で撒くことにもなりかねないのだ。
余計なお節介かもしれないが、彫刻をつくるとき、そのイメージがどこから来たのかをある程度ドローイングなどに残して、押さえておくのは結構大切なことではなかろうか。好評にしろ不評にしろ、作品が独り歩きして先々どんな展開になるか知れたものではない。ブロンズでつくられ、コンクリートの台座にアンカーでしっかりと据えつけられたものであれば、少なくとも40〜50年は消えてなくならないだろう。その間作者は、作品の出自にからむさまざま曖昧さについていつも不安を抱え、場合によっては社会の分断を目論む歴史の捏造といった意地悪な批判に晒されても、じっと耐えねばならなくなってしまうのだ。
それにしても慰安婦の娘(現役)時代とおぼしきこの少女像は、裸足で椅子に座り両手
を膝の上にきっちりと並べ、肩に小鳥をとまらせるというかなり念の入った姿形をとっている。そこにはそれ相当の制作意図のようなものが、込められていたに違いないと私などには思われるのだが…。そもそもこの「平和の少女像」には、想像上の制作物というには収まり切らないほどの、ある種のリアリティが濃厚に漂っていると感じられるのである。
また制作者のキム・ウンソン(金運成)とキム・ソギョン(金曙Q)という夫婦は、どのようにしてこの像を手掛けるに至ったのだろう。もともと自発的にとり組んでいた従軍慰安婦というテーマが、2011年に正義記憶連帯(旧挺対協)によって偶然発掘されたものか。さらに慰安婦像がつくられた後、わりと早い時期にアメリカ本土で増設されたのはなぜか。そしてそれがキム夫妻の「平和の少女像」ではなく、まったく別の像に置き換えられたのはどうしてだろう。考えれば考えるほど納得のいかないことが、数珠つなぎになって出てくるのである。
この少女像の由来に関しては、2017年1月14日のネット版「毎日経済新聞」に「2011年3月、韓国挺身隊問題対策協議会が、日本大使館前に慰安婦の記念碑を建てたいと、鍾路区長である金永椶(キム・ヨンジョン)に面会した際、金永椶は、記念碑なら道路専用許可が必要だが、慰安婦像なら芸術作品なので許可対象ではないとし、チマチョゴリ、大使館をみつめる視線、木製の椅子と隣の空席の椅子、など慰安婦の基本構想を出した」という。
「この構想に基づき同年5月に韓国挺身隊問題対策協議会が金運成に慰安婦像作成を依
頼した」(日経新聞2014年3月10日閲覧)とある。何と従順な人たちばかりなのだろう。キム夫妻はあいちトリエンナーレで、「日本をおとしめる意味はなく、平和の象徴としてつくった。政治と芸術は切り離せない。直接見て、意味を感じて」と語り、最近ではそこに「46年間差別されてきた女性たちが、さらなる苦痛を受けてきた」ことも表していると、一言つけ加えるのを忘れないのだった。(月刊『ギャラリー』2020年6月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より)

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○ 慰安婦像は、どうして お婆ちゃん ハルモニ ではないの(1/5)

慰安婦像は、どうして お婆ちゃん ハルモニ ではないの「あいちトリエンナーレ2019」の出展作家・作品を多数引き継ぐはずであった「ひろしまトリエンナーレ」が、四月一〇日急遽中止と決まった。「表現の不自由展・その後」をめぐる行政サイドの介入は、いつまでたっても一向に止む気配がない。だが、いつも検閲を振りかざすお定まりの強硬姿勢はさておいて、これまで展示されてきた「平和の少女像」通称〔慰安婦像〕をめぐっても、ここいらで美術批評の方向からミステリーポイントを洗い直し、素顔に迫ってみるくらいの価値はありそうである。というのもこの彫刻は、美術作品としては他に例がないほどの謎を秘め、何とも腑に落ちないことが散見されるからだ。
まずもっとも理解しにくいのは、少女像の左に空の椅子が置かれていることである。ソ
ウル特別市鍾路区の日本大使館まえに、最初の像が設置されときの除幕式(2011年12月14日)では、その椅子に元慰安婦が座ることもあった。それをみてか、設置者の挺対協は空の椅子を「正義をいまだ証言していない高齢で死を迎えている生存者を象徴している」と説明している。人生の黄昏(たそがれ)を迎えている生存者を空の椅子で象徴するという、大層気が早いというか縁起の悪い制作意図のようだ。それにしてもこの説明はいたいけな少女と空の椅子が、かつての慰安婦を表し日本を批判する意図でつくられていると明確に主張している。その点で、挺対協の「告発像」の認識には少しのブレもないようだ。
だが、通常空の椅子が象徴するのは当事者の「不在」だけだろう。作品としてそれ以外
の意味を伝えるとも思えない小道具を、わざわざ精巧につくって置こうとした作者の拘りみたいなものを、掘り下げて理解させる説明にはなっていない。第一これでは、慰安婦を象徴しているのは少女か、それとも隣の空の椅子かということになってしまう。どんな彫刻家であれ、モデルに迫る具象表現と、抽象作品や現代アートでよく使われる象徴・概念化という手法をごちゃまぜにしたようなシロモノを、つくりたいとは思わないのが普通だ。
また観客たちを作品の一部である椅子に誘い、正面向きに座らせて鑑賞させたいと考えたとすれば、これも素朴でやや古風な印象の作品にはあまりそぐわない、かなりインタクティヴな仕掛けといわざるを得まい。さらに大使館前に設置されたのは、確か金色に輝くブロンズ像であったのに、路線バスや展覧会場では着色された像が置かれている。一体どれがオリジナルで、材質はもともと何なのか。留まるところを知らないコスプレ・デコレーションを含め、まともな美術作品として扱うにはまだ相当に時間がかかるという印象だ。
次に、タイトルはなぜ「平和の少女像」とされたのだろう。従軍慰安婦という言い方が、あまりに露骨過ぎて、美術作品に相応しくないという話はとてもよく分かる気がする。だが仮にも大使館や総領事館のまえに設置されて、反日抗議デモをやっている真っ最中の彫刻だ。いまさら心穏やかな平和像を気取ってみても仕方あるまい。ソフトにでも慰安婦を暗示する言葉をつけるというのが、ごく自然な振る舞いだったのではなかろうか。そしてこの像が、まずは日本(政府ないし国民)に向けられていることを示すオリジナルな表示が、どこにも見当たらないのは一体どうしてだろう。こうした何気ない引っ掛かりから出発して、さらなる疑念が次々と沸き起こってくるのを、私はどうにも止められないのだ。
極めつけは、慰安婦を表示する具象彫刻を日本大使館の前に設置しようという話が持ち上がったとき、なぜ作者は実在している本物の元慰安婦のお婆ちゃん(ハルモニ)たちをモデルとして使わなかったのかという点だ。(月刊『ギャラリー』2020年5月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より)

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○ 新型コロナウイルス・100年の攻防

新型コロナウイルス・100年の攻防新型コロナウイルスの拡散が止まらない。この原稿を書いている令和2年3月9日現在、わが国の感染者数は1,157人(死亡13)であり、その数はこれからも増えていくと懸念される。ちなみに朝日新聞によると中国は80,651人(3,070)、韓国7,041人(48)、アメリカ338人(14)だ。今回の大流行(パンデミック)を振り返ると、以前に発生したMERS(中東呼吸器症候群)やコロナウイルスSARS(重症急性呼吸器症候群)を越えてわれわれの記憶によみがえるのは、やはりあの「スペイン風邪」ではないだろうか。
アメリカ疾病予防管理センター(CDC)ほかの精緻な追跡調査によると、カナダの鴨からイリノイの豚を経由してヒトに変異したウイルスを、第一次世界大戦に向かう米兵が船で欧州へ持ちこんだために拡散したといわれる。1918(大正7)年の春ごろから猛威を振るいはじめ、全世界での死者は2千万〜5千万人といわれ、当時人口5,500万人だったわが国でも実に39万人という、桁違いの犠牲者を出している。医師たちが真っ先に斃れたことが響いて、重度指数(PSI)5という史上最強にして最悪の感染症へと変貌していった。
中央同盟国オーストリアの画家グスタフ・クリムトは、特有の症状が悪化して最終的には脳梗塞と肺炎のため、1918年2月6日にウィーンで亡くなっている。新型ウイルスの感染者としてはかなり早い方で、恐らくスペイン風邪の第一波に早々と冒されてしまったのだろう。当時彼の家には、多いときで15人もの女たちが寝泊まりし、かわるがわる裸体画のモデルをつとめており、その多くとクリムトは愛人関係を結んでいた。彼は生涯未婚であったが、少なくとも14人の婚外子のいたことが知られている。当時のパンデミック警報がどのようなものであったのかは不明だが、少なくともウイルスの強烈な感染力を察知した身近な人々の間では、相当なパニックが生じていたことは想像に難くない。
エゴン・シーレの場合にはまず妻のエディト(写真)が、病原性を強めてさらに合併症を引き起こしやすくなっていた風邪に罹り、シーレの子を宿したまま1918年10月28日に亡くなった。同じウィーン地域なのに、クリムトの死からはすでに8ヵ月が経過しており、第二波の流行で罹患したものではなかろうか。つづいてシーレ自身が同じ症状を呈しはじめ、妻の家族に手厚く看護されたものの10月31日に亡くなっている。発症から死亡までの時間がそれほど長くなかったものか、シーレをしてさえ病の床に伏す人の痛々しいスケッチを残すゆとりなど、思いもよらなかった。だがこの悲劇的な顛末は、近代社会が初めて遭遇したパンデミックの戦慄を象徴するものとして、長らく人々に記憶されることとなる。
一方わが国の劇作家・島村抱月も同じころ罹患し、さらに急性肺炎まで併発して1918年11月5日に東京牛込横寺町の芸術倶楽部の居室で急死している。女優の松井須磨子は、抱月の没後もしばらく気丈に芸術座の公演をつづけていたが、やがて彼の後を追い失意の自殺を遂げるのだった。いわゆる関連死の類いだろう。アポリネールは妻ジャクリーヌと結婚してからわずか半年後の1918年11月9日、32歳の若さでパリに亡くなっている。この病が青年層を集中的に襲う、独得のタイプであったことを如実に物語るものである。
村山槐多は1919年2月ごろに発症している。19日の夜半、なぜかみぞれ混じりの雨の中を外へ飛び出し、翌20日の午前2時ごろ畑で倒れているところを発見される。失恋した女の名をうわごとでくり返していたが、2時30分に22歳の若さで帰らぬ人となる。その後を辰野金吾やヴェーバーが追うのだった。(月刊『ギャラリー』2020年4月号より)

★★★★★


○ バンクシー:イギリス議会制民主主義のコッケイ(3/3)

バンクシー総選挙の結果は、意外なものだった。キャメロン首相の率いる保守党が勝利し、単独政権の誕生となる。俄然、保守党の強硬離脱派が色めき立ったことはいうまでもあるまい。このとき初めて首相は直面する難局の大きさに気づき、その目に恐怖の色が浮かんだのだ。
国民投票へのキャンペーンは熾烈をきわめた。なかなか足並みが揃わない残留派を尻目に、離脱派はここぞとばかりにあらゆる問題を移民のせいにする。「イギリスはEUへ毎週3億5000万ポンドもの拠出金を支払っている。なのに一体何をしてくれたというのだ」などという怪しげなフェイク・ニュースが乱れ飛ぶ。十数年に一度あるかないかの国民投票であれば、どんなに無茶な手を使ってでも勝ちをとりに行かねばならない。保守党のボリス・ジョンソン現首相などは、キャメロン首相を出し抜くために、残留支持であった経歴をたくみに隠して離脱派に加担したといわれる。国民投票では善戦しながら、惜しくも僅差で残留派に破れるという筋書きでいたようだ。現に彼の弟や妹は明確な残留派であった。
いざ蓋を開けてみると、やはり離脱派51.89%、残留派48.11%という、相当にきわどい闘いである。独立党党首のナイジェル・ラファージは、独立記念日とはしゃぎまわり、議会のウェブサイトにはたちまちやり直しをもとめる嘆願書が何百万通も殺到したという。この結果をうけてキャメロン首相は「2度目の国民投票はない。この決定を受け入れるべきだ」とコメントし、あわせて自らの辞任を告げたのだった。なぜか大事なところで本音をいわずにツンと乙に済まし、その実危ない賭け事が大好きで堪らない彼の性格が思いっきり露呈した恰好であった。
後を引き継いだテレーザ・メイ首相は2017年3月、EUに対して正式に離脱意思を表明する。こうしてウエストミンスター(英議会)は具体的なビジョンやプランを一切持たないまま、2019年3月29日にはきっとうまく離脱できているだろうという、想像を絶するほど甘い見通しに身を委ねることになったのだ。表向き離脱しながら、その実残留派が求める権利はできるだけ温存しようというEUとの離脱合意案(ソフト・ブレグジット)は、党利党略に走った議会によって三度も否決される。メイ首相の後を受けたボリス・ジョンソン首相は議会を一旦閉鎖し、力づくで総選挙に持ちこんだ戦略がようやく成果を上げたのだった。だが、バーコウ議長が「22年間で最悪」とあきれるほど混乱をきわめたイギリス議会が、今後どれだけ以前の機能をとり戻せるかは、いまもって不明のままなのである。
バンクシーは10年以上も前に、こうしたイギリス議会制民主主義のぶざまな迷走を察知していたのだろうか。「退化したイギリス議会」で一頭ずつのチンパンジーは、まるでその椅子に元々座っていた議員たちの仕草を、しっかりと写生でもしてきたかのような迫真力をもって描かれている。この作品がオークションに持ちこまれてきた経緯については、明らかにされていないようだが、ブレグジットをめぐる百家争鳴との関係でいえば、まさにドンピシャの描写だろう。もはやチンパンジーたちに、遠慮や自制心はカケラもない。
「風船と少女」(オークション後『愛はごみ箱のなかに』に改名)でいわば赤恥をかかされた形のサザビーズは、今度こそ会社の名誉挽回とばかりにオークションに臨んだのだった。2019年10月4日、13億円(約990万ポンド)という高額での落札を引き出している。はたしてこの金額が「アートは本来一部の富裕層が独占すべきではない」と考えるバンクシー本人には、一体どう映ったことだろう。(月刊『ギャラリー』2020年3月号より)

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○ バンクシー:イギリス議会制民主主義のコッケイ(2/3)

バンクシーブリストル・ミュージアムでのバンクシー展、「天才か反逆者か」(2009年)が大成功をおさめたころから、イギリス社会はしだいに治安が悪くなりはじめる。街中にもやたら監視カメラが目立つようになった。こうした現象をみて、バンクシーは監視カメラの実物を壁に設置し、それが覗いている先の壁面に「何をみているわけ?」と皮肉っぽく描きこんだ作品を発表した。生活を覗かれるのが嫌でたまらないな若者たちには、バカうけだった。
市民のなかには、治安が悪くなったのは「東欧から押し寄せる移民のせいだ」とか、「イスラム教徒のせいだ」と考える人々も出はじめる。それを気にした当時のキャメロン保守党党首は、2015年の総選挙の際に、わが党が勝てば必ずブレグジット(イギリスのEUからの離脱)の是非を問う国民投票を行うと選挙公約した。
移民の流入によって職を失い、このままだと医療・教育などの公共費負担が恐ろしいまでに増大するとした世論の反発と、ユーロ危機・金融規制をめぐる大陸との対立がもはや放置できないところまできたと判断したのである。この間新興勢力であるイギリス独立党(UKIP)への支持は、急速に拡大していった。残留(親欧州)派の多かった保守党のなかでさえ、EU(欧州連合)への懐疑を抱く人々はしだいに増えていったのだ。
つまりキャメロン首相の公約は、党内で勢いを増す離脱強硬派を抑えこみ、あわせて票が独立党へと流れるのを防ぐための巧妙な仕掛けであったといわれる。確かに国民投票はそれまで1975年(EC残留)、2011年(選挙制度改革)と二度行われ、それなりにうまく機能していた。為政者たちには、まるで困ったときの伝家の宝刀のように映っていたことだろう。もちろんその裏には、保守・労働の二大政党の得票率がふたつ合せても60%台を突破できないほどに落ちこみ、国会での丁々発止の議論をもとに総選挙で決着をつけるという、イギリス議会制民主主義お得意の一手がもはやほとんど機能しなくなったという、悲しくも危うい現実が潜んでいたのである。
大統領という強大な指導者をもたないイギリスでは、こうした二大政党間の駆け引きという議会特有の行為が、しばしば政策理念以上の重みをもって扱われがちだ。多数の国会議員を動員した多角的な議論に基づく意思決定ができないとなれば、後はいくらリスクが伴うからといって、国民投票によるしかないではないか。そう考えたくなるのが人情というものだろう。だが国論が大きく分かれたとき、その時々の感情で一気に押し流されていく国民投票というのは結構危ない手段である。対立を煽りたがるマスコミの誘導によって、論争はしだいに2分の1ずつへと収斂していく傾向がないでもない。もしその罠にはまったら、何度国民投票を繰り返そうと国論は真っ二つに割れたままだ。少しの身動きもならなくなる。半分の反対者が、常に最終的な意思決定を妨げるからである。 
誰も口にしたがらないことだが、政治の素人による投票制というのは、短期ではその意外性・デタラメさこそが真骨頂であるといってもいいようなシロモノだ。おまけに1票差であっても、一度出された結論を曲げるのは容易でない。キャメロン首相自身……
(月刊『ギャラリー』2020年2月号、「勅使河原純のいいたい放題」より)

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○ バンクシー:イギリス議会制民主主義のコッケイ(1/3)

バンクシー覆面作家バンクシーの活動は2002年頃から、イギリスの港町ブリストルのバートンヒル地区ではじまっている。舞台はもっぱら街中の壁面だ。だが最初からゲリラ専門の、単なるグラフィティ・アーティストというわけではなかった。一見したところ作品は、少女が風に飛ばされたハート型の風船を眺める、さりげないCM風のイラストにみえなくもない。
だが、その向こう側には冷徹に時代をみつめようとする、厳しい眼が光っている。選挙制度を相手にしない、ややラディカルな政治活動のように読めなくもない。それも二大政党には批判的で、人権問題にはきわめて敏感なイギリス流新左翼としての活動に。
当時イギリスは遅ればせながら、経済的実利をもとめてEC(ヨーロッパ共同体)へ加盟していた。だがその直後から金融業、サービス業を中心とする市場志向の強い経済へのシフトがはじまり、人・物にこだわる大陸諸国とのあいだに少しずつ溝ができていった。しかも保守党、労働党という二大政党のどちらも、完璧な親欧州派で一つにまとまれたわけではない。それでも国民投票をすれば、まだ67%の人々が加盟(残留)を支持し、何のかんのといっても2000年代まではEU旋風に煽られ、離脱組はむしろ少数派だったのである。
ベツレヘムに若い男が花束を投げつけようとしている、バンクシーの有名な壁画がある。正確なデッサンと巨大なサイズからいって、作者としてはかなり周到な準備を経た「落書き」と思われるのだが、発表場所としてわざわざ危険なパレスチナ自治区にあるキリスト生誕の地を選んでいること自体、バンクシーの政治的立場を象徴していよう。
そうかと思うと制服・制帽の男性警官どうしが抱き合い、熱く「キスする警官たち」のような作品もある。場所はパブやナイトクラブが多く、「同性愛者の首都」と揶揄されてきたブライトンのトラファルガー通りである。この街では著名なミュージシャンたちが活躍し、アンダーグラウンド音楽とも関わりの深かったバンクシーらしさが漂っているだろう。
こうして多くの人々の政治的共感や反感をあつめながら、バンクシーは2009年7月に生れ故郷のブリストル・ミュージアムで初のワンマンショーを開いている。イギリス各地から観客があつまり、まるで美術館はテーマパーク並みの混みようであった。「天才か反逆者か」と銘打たれた出し物のなかには、ミレーの「落穂ひろい」やベラスケスの「鏡のヴィーナス」をちょっと描き換えておちょくった、十分に伝統的カリカチュア作品も並んだ。
そうしたなかに「退化したイギリス議会」(写真、Banksy“Devolved Parliament”)という問題作が含まれていたのだ。ウェストミンスター(英国議会)の議場にずらりと居並ぶ議員たちが、何とあられもない恰好で立ち騒ぐチンパンジーに置き換えられているではないか。諷刺画としてはいささか月並みだが、横4メートルを超す大画面をすべて猿たちで埋めつくした筆力は、ただごとでない。
これに気をよくしたのか、バンクシーは次にロンドンのオークションハウスへと狙いを定めていく。代表作「風船と少女」を、2018年10月5日のサザビーズ・オークションに、あるお土産つきで送ったのである。作品が1億5000万円で落札された正にその瞬間、「風船と少女」は額縁に内装されていたシュレッダーによって短冊状に細断されたのだった。
これまた一見すると、現代美術に特有のお遊びを装ってはいるが、アートを介したグローバリズム的な格差社会への痛烈な一撃ではなかったろうか ……
(『ギャラリー』2020年1月号、「勅使河原 純のいいたい放題」より)

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○ 文在寅という男

文在寅という男いきなりで恐縮だが、韓国大統領の文在寅という人は、偉大なる文明批評家ではないだろうか。ソウル大学のイ・ヨンフン元教授の言葉によると、まったく独自の体系を持った「反日種族主義」という、これまで日本人があまり耳にしてこなかった新手のポスト・コロニアル主義を掲げ、それを世界に向けて高らかに宣言してみせたからだ。
現在の朝鮮半島が抱える抜き差しならない問題を考えるとき、どうしてもこれを一度日本による朝鮮統治時代以前の状況に引き戻して、そこからもろもろの世相や社会現象を逐一洗い直しながら、真っさらな眼で現在の韓国と北朝鮮を見直し、改めて再検討したいというのは文明批評家であれば、きわめて自然な欲求であろう。楽天的に過ぎるかもしれないが、批評家とは厄介な現実を一度きれいさっぱりと忘れ去って、その向こうにもっと遥かに明るいたくさんの可能性を読みとって、独り悦に入っている人のことをいう。
それにしても彼の国は、『赤富士と花と果物』(深見東州作、写真)に表された美しいわが国とはこんなにも違っていたのかと、いまさらながら驚かざるを得ない。すでに民族解放後74年も経っているが、朝鮮半島の人々は日本の植民地時代の補償はこれまで充分には行われてこなかったし、謝罪も満足には果たされてこなかったと考えている。そこには例えば、軍事独裁政権下の財政援助のような権力者同士の相互扶助めいたものは一切含まれず、国民一人ひとりへの慈愛に満ちた不断の支援行為として実施されて、はじめて意味を持つと理解されよう。
しかも韓国の人々にとってこのことは、国がアジアの一国家として発展することや南北が統一されることと同等の、あるいはそれ以上に大切な意味を持つ儒教的「正義」に関わることなのだと理解せねばならないようだ。それを何と74年にも渡って怠り、放置してきた大韓民国という出鱈目きわまりない国は、有り体にいえばこの世に誕生してはいけない国家だったのだ。今の政府という統治機構だって、責任なしとはいい切れないのが実情だ。
世界において、とりわけわれわれの東北アジアにおいて「民主主義」という高邁な理想主義を追究する茨の道は、現実の政治・経済界の権力亡者たちの目を被いたくなるような腐敗によって、しばしば汚染され浸食されがちである。従ってこの批判精神の旗を高く掲げる者は、現実の政治や経済に決して足をすくわれてはならない。ある意味これをわざとぶち壊してでも、政治や経済を大きくのり超えていく必要さえあるのだ。
だが残念なことに、こうしたポスト・コロニアル主義は現在の国際社会で多くの国々を納得させ、広汎な賛同を得る普遍性を獲得するところにまでは行っていない。それどころか、財閥を除いてグローバリズムの先頭を走ってきたとも思えない韓国自身の国内においてさえ、半分ほどの人々は「これはロマンチックな批評家の夢に過ぎないのではないか」と、疑念を抱きはじめている。正義や安全地帯の確保という最終目標はまだしもとしても、それによって眼前の様々な不都合に目をつむりつづけることは、ひょっとすると大方の利益を損なってしまうのではないかと、真剣に悩みはじめているようにもみえる。
というわけで、このままでは文在寅という男は、法律の編みの目を巧みにかい潜り韓国の民心に火をつけ、大炎上させる技に長けた稀代のポピュリストというレッテルを貼られ、歴史の闇に葬り去られてしまうかもしれない。何しろこれまでの経緯が示す通り、要らなくなった大統領の扱いには極めてぞんざいなお国柄である。ふとそんな心配をしてしまうのはやはり私自身が批評家のせいだろうか。(「ギャラリー」2019年12月号、画人悠遊)

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