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とっても気になるあの展覧会へ「行ってきました」

 

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○われらがご先祖様に遭遇。ただただ感嘆!


シャヴァンヌ
「諸芸術とミューズたちの集う聖なる森」
1884-89年頃、油彩・カンヴァス、93.0×231.0cm、シカゴ美術館蔵

 

日本人が絵を描く。それも油絵具なんぞというものを使って、ブラシで描く。さて、その絵は「どこからやって来たのか」と問われると、いろいろな答えが考えられよう。高橋由一、横濱繪、アントニオ・フォンタネージ、山本芳翠…。
幕末明治期、イタリアを凌駕しつつあった大国フランスに「外光派」という、名前からしてどことなく印象派を想わせる、脱アトリエを標榜する一派があった。これを徹底的に学んで帰国した東京美術学校教授・黒田清輝を、御開祖として思い浮かべる人は少なくないかもしれない。
彼の銀灰調の画業に注目するならば、その師ラファエル・コランから、ついには19世紀フランス画壇の重鎮ピュヴィス・ド・シャヴァンヌへと辿り着かねばならない道理だ。アルカディア(桃源郷)を艶消しの清澄な色遣いであらわした、伝説の壁画作家へと否応なく行き着いてしまうのである。

だが残念なことに、多くの人の思いはそこでプッツリと途切れる。なぜかって? そう、われわれはピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824-1898)の本格的な作品をみる機会に、長いあいだ恵まれてこなかったからだ。
それにしても黒田は、サロン(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)会長シャヴァンヌのどこに惚れたのだろう。いち早く野外の光に目をつけた進取の気風か。ギリシャ神話を視覚化する構想の雄大さか。憶測は憶測生み、ただ折り重なっていくばかりである。
だが幸運にも、待望久しいこの展覧会をながめられた人々は、シャヴァンヌの「瞑想」(1867年)デッサンや「海辺の乙女たち」(1879年)の身振り、さらには「聖人のフリーズ」(1879年ごろ)を飾る金箔などに、われらが遠きご先祖様の証をみつけて、ただただ感嘆するのである。(Bunkamura ザ・ミュージアム〜H26年3月9日 )

★★★★★

 

○雲中供養菩薩は空を飛んでいるのか?

人頭鳥身の迦陵頻伽(かりょうびんが)は瑞鳥らしく、たいてい棚引く羽衣をまとっている。しかしこうした飛天たちと違って、平等院の雲中供養菩薩に飛翔する小道具は見当たらない。棚引いているのは「飛雲」だけだ。そうであれば雲は空を飛ぶための手段、すなわち孫悟空のきん斗雲なのか。救急車よろしく、そんなに慌てて一体どこへ向かおうというのだろう。
ちなみに馬、牛、象、舟、筏、龍、大鳥、飛行機、グライダー、ペガサスなどと見比べていただきたい。平安時代とはいえ、騎乗するには両足を踏ん張ったそれなりの体勢が必要だ。だが菩薩たちに風を切って空を疾走し、航行していく意志やスキルはほとんど感じられない。そもそも飛雲のサイズは小さすぎるし、重心がどこかも定かではない。
かろうじて尻尾(雲尾)は認められるが、かといってアクセル、ブレーキ、翼、舵などの役目を担っているわけではなさそうだ。滑空を演出する帯状のバルーン、天衣や羽衣とは大いに違っている。その天衣や羽衣にしたところで、古代式UFOと呼ぶにはほど遠い存在というのが私の見解である。
勝手にいわせていただくなら、「飛雲」は菩薩様ひとりがやっと体を動かすことのできる座布団式舞台に近い。菩薩たちは落語家よろしく、そこで静かに演じておられる。興がのれば楽器を奏で、ついには立ち上がって舞い踊る(写真、1053年,木造・彩色・漆箔・截金)。その際座布団がどこから飛来しようがお構いなしだ。供養菩薩たちの楽しげな様子が突然あたりに、つまり人々の想念のなかに出現する様子、気配を表しているだけで充分なのである。「飛雲」は不意の出現を正当化するための、可愛らしいシルクロード型言い訳に過ぎないようだ。(サントリー美術館、〜H26年1月13日)

★★★★★

神々の大結集

○「ターナー展」


「バターミア湖、クロマックウォーターの一部、
カンバーランド、にわか雨」
1798年、 カンヴァス・油彩、88.9×119.4cm
N00460, Accepted by the nation as part of the Turner Bequest 1856, B&J 7

 

水のある風景をこよなく愛したウィリアム・ターナー。そんな彼が、イングランドでもっとも美しいと誉れ高い湖水地方の景観を、ただ黙って放っておくわけがない。
カンブリア山地から流れ出た氷河によって刻まれた放射状の谷には、決まって澄んだ水をたたえる湖があった。サルメア湖、ダーウェント湖の西に位置するバターミア湖の東端フリートウィズ・パイクからながめると、高原の険しい山々に挟まれるようにして、遠くクラモック湖のあたりまで見渡せる。
折しも水蒸気をたっぷりと含んだ黒雲に遮られて太陽は顔を隠す。と次の瞬間、奇跡はおこる。まるで夜のような暗闇となった天空に、突如巨大な虹が現れたではないか。真白に光り輝く半円は、湖に映りこんで正円へと完結していく。こうして伝説の「夜の虹」は、歴史上ただ一度だけ描きとられたのだ。しかも、他のいかなる方法によっても及ばないほど正確無比に。
この作品は23歳の青年画家が、水のある風景へといかなる気迫で挑んでいったかを示す記念碑といっても過言ではないだろう。(東京都美術館、〜H25年12月18日)

★★★★★

 

○「ミケランジェロ展 天才の軌跡」

この展覧会の見どころとして、私は迷わず二つの彫刻「階段の聖母」(1490年ごろ、写真)と「キリストの磔刑」(1563年)を挙げておきたい。しかし、両作品はともにきわめて薄い材料から彫り出されている点、比較的動きが少ないポーズを取っている小品である点を除けば、何から何までが正反対というか、対照的である。そのことは、はたしてこれが一人の芸術家の生涯をかけた営みだったのだろうかと思わせるほどに鮮烈だ。
まず制作年代だが、前者はミケランジェロ(1475-1564)15歳当時の大理石作品である。後者は最晩年の88歳ごろの木彫。そのためか、両作に未来への不安と過去への内省が際立つのは、如何ともし難い。
「階段の聖母」はスティアッチャート(極薄肉浮彫)にも関わらず、絵画的な叙情性や装飾性を排した、きわめて彫刻的といっていい作品だ。上下いっぱいに聖母子を配し、幼子イエスの背中にはまったく彫られていない元の平面部分が残る。目のまえに腰掛けている母子をリアルに再現しつつ、視線は階段の奥へ奥へと招じ入れられる。すでにして彫刻の何たるかを会得した熟達の構図だろう。
「キリストの磔刑」には、もはや生身の肉体を写し取ろうとする彫刻意志は感じられない。それよりキリストの精神だけをそこに投げ出そうとする、中世さながらのストイシズムに満ちあふれている。小像全体を被いつくしている細かな線(彫刻刀のハッチング)は筆使いを暗示し、頭部の思いがけない角度はクロッキーの自由闊達を想わせる。そのことはわざわざ飴色の固い素材を選び、なおかつ甥レオナルドへ鋭い彫り跡を残せる彫刻刀をもとめたいきさつからも明白だろう。
天才の一生には観者を惑わす謎がつきものだ。それはブオナローティ自身が、人生から導き出した造形作法なのだろう。(国立西洋美術館、〜H25年11月17日)

★★★★★

神々の大結集

 

○「プーシキン美術館展」

東日本大震災を乗り越えて「プーシキン美術館展」が甦った。この展覧会の面白いところは、体系的にたどられるフランス近代絵画の壮観もさることながら、ロシアン・コレクターたちの個性的な作品蒐めにもある。
なかでもセルゲイ・シチューキン(1854-1936)とイワン・モロゾフ(1871-1921)という二人の織物貿易商が、競い合うように、あらん限りのエネルギーを投入してつくり上げた一大コレクションは、それ自体が偉大な芸術作品といっていいだろう。

シチューキンは1906年からマティスの作品を買いはじめ、注文による「ダンス」、「音楽」を含む37点を蒐めた。マティスによれば「彼は決して誤ることのない眼をもっていた」という。このほかマネ、ドガ、セザンヌ、ゴーガン、ゴッホ、マルケ、ドラン、アンリ・ルソーと、富豪らしく気に入った作品を目にすると手当たりしだいに即断即決で買いあつめていった。ピカソも最初期からキュビスムに至る40点を入手している。
とくに息子や妻、弟を相次いで亡くした時期には、その悲しみを癒すためゴーガンの熱帯作品にのめりこんだという。今回出品の「エイアハ・オヒバ(働くなかれ)」(写真)などを食堂の壁に飾っては、飽かずながめていたようだ。
他方モロゾフはパリに代理人を置き、ボラールやベルネーム・ジューヌら画商との交渉に当たらせている。年間20〜30万フランを絵画市場に投入したという。その甲斐あってセザンヌ17点をはじめ、モネ、ルノワール、ゴーガン、ゴッホ、ボナール、ピカソなどの傑作140点余りを蒐集する。系統的なコレクションにこだわったモロゾフは、作品購入に際しては慎重そのもの。シチューキンに比べると、やや穏健な好みの傾向がほのみえてくる。
ドニの出品作「緑の浜辺、ベロス=ギレック」や、ルーセルといったナビ派をロシアにもたらしたのも彼だ。邸宅にはセザンヌだけを飾る「セザンヌルーム」があり、しかもお目当ての作品が手に入るまで、わざわざ壁にそのスペースを空けておくという念の入れようだったという。
しかしながら1917年のロシア革命後、二つのコレクションはソ連政府に没収され、当人たちも国外脱出を余儀なくされる。1948年以降、作品はエルミタージュ美術館とプーシキン美術館へ分割されるという憂き目にも遭っている。だが自国の美術よりも、もっぱらフランス絵画を愛した二人の純粋な情熱だけは、永遠に不滅といっていいだろう。(横浜美術館、〜H25年9月16日)

★★★★★

 

○貴婦人のかたわらで、一角獣がほほえむ

近年稀にみるユニークな展覧会である。何しろ展示されているのはフランス国立クリニュー中世美術館からやってきた、6枚の大きなタピスリーだけである。ところがこれら真紅の織物が貴婦人と侍女、一角獣と獅子、鳥、犬、猿、ウサギ、ヒツジあるいは千花模様(ミル・フルール)、樹木といった共通要素によって、一体何を伝えたかったのかといえば、つまるところよくは分からないのだ。
1500年ごろ北フランス、ル・ヴェスト家(家紋は三連の三日月模様)の当主アントワーヌ2世が、膨大な時間と費用をかけてジャン・ディープルと目されるタピスリー作家に制作を依頼したのはなぜか。そこに美的な愉しみや慰めが全くなかったとはいうまい。だがそれだけだったといわれれば、正直いま一つしっくりとはこない。
この謎に歴史家A.F.ケンドリックは何とも心憎い解答を与えた。すなわち5枚は触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚をあらわし、「我が唯一の望み」と書かれた最後の6枚目は、第6感をあらわすと。観念の世界へジャンプさせてしまえば、とりあえず妙に人間臭い獅子や鎖につながれた猿の寓意は問わなくて済むからだ。
だがここに登場する要素は、どれも均等ではないし、決して似通ってもいない。私などは「実在(固有名詞)のありとあらゆるものを寄せ集めて」きて、当時の社会システムを辛辣に揶揄した「アントワーヌ流中世曼荼羅」なのではないかと、密かに妄想を逞しくするばかりである。(「貴婦人と一角獣展」国立新美術館 〜H25年7月15日)

★★★★★

神々の大結集

「貴婦人と一角獣 触覚」部分、1500年ごろ、
羊毛、絹、縦369-373×横352-358cm
(C)RMN-Grand Paris/Franc Raux/
Michel Urtado/distributed by AMF-DNPartcom

 

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