JT-ART-OFFICE アートは心の窓、いま美術を一人ひとりの手に。 東京都武蔵野市吉祥寺

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とっても気になるあの展覧会へ「行ってきました」


○「あいちトリエンナーレ2010」

わが国の経済を牽引していく自動車産業の挫折からか、中部地方はいまひとつ意気が上がらない。そんなモヤモヤした空気を一気に吹き飛ばそうと「あいちトリエンナーレ2010」が、8月21日にスタートした。テ ーマは都市とアートが複合的に響きあう「都市の祝祭」。メーン会場となった愛知芸術センターでは蔡國強の大ドローイング「Day and Night」、バングラデシュ出身のフィロズ・マハムドの穀物でつくられた 戦闘機、曾建華のテロップ・インスタレーション(写真)などが、それぞれの世界をくり広げた。また大小 のホールを動員して、ローザス製作「3Abschiedドライアップシート(3つの別れ)」をはじめ、平田オリザ+石黒浩研究室のロボット版「森の奥」など、現代美術と舞台公演・パフォーミングアーツの合体した ユニークなステージが、連日試みられていく。 つづきはこちらから⇒

あいちトリエンナーレ2010
あいちトリエンナーレ2010
曾建華 「The Seven Seals」2010年、プロジェクターによるテロップ [動画]

(愛知芸術センター、名古屋市美術館、長者町会場、納屋橋会場ほか 〜2010年10月31日)

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○「オルセー美術館展2010−ポスト印象派」

モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなど、その数115点。それぞれの画家が歴史の上ではたした比類なき役割を、再認識させてくれる名品ばかりだ。モネのタッチは万物の輪郭を光のうつろいのなかに溶かしこみ、セザンヌのハッチングは東洋の水墨画をも凌ぐ水茎の跡をみせる。
だが、それらの作品をおしのけて私がもっとも注目するのは、アンリ・ルソーの二大傑作だ。ひとつは普仏戦争時のパリを彷彿とさせる「戦争」(1894年)。もうひとつは熱帯の神秘をシンボライズする「蛇使いの女」(1907年、写真部分)。「戦争」には通常あり得ない、矛盾に満ちた〈素朴な表現〉が数多くみられる。一方「蛇使い女」には、何とそうした表現は一ヶ所もない。
ふぅーん。蛇使いの女が「立体性を問われない黒いシルエット」で扱われているためだけではなさそうだ。世の中には素朴にしか描けない画家と、素朴には描けないアーティストがいる。そのことはよく承知しているつもりだ。だが天才ルソーはどうやらその二つの間を、気随気ままに行ったり来たりしていたらしい。 〈素朴な表現〉をもっと知りたい方はこちらから⇒

ルソー「蛇使いの女」
会場風景 8/12
ルソー「蛇使いの女」
会場風景 8/12

(国立新美術館ほか 〜2010年8月16日)

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○森村泰昌・なにものかへのレクイエム

80年代から一貫して名画の登場人物たちに扮してきた森村泰昌。その奇抜にして、どこか懐かしいセルフポートレイトは、ついに20世紀を生きた男たちの集大成へと向かう。今回美術館で発表されるのはその完全版だ。
石田哲朗学芸員に案内され、会場に姿を現した「森村に扮した森村泰昌」は、開口一番「言葉は重荷である」などという。小説家の平野啓一郎が「横尾忠則やドナルド・キーンなど、三島由紀夫と親しかった人たちにはある共通点がある。それはすぐ三島の口調を真似することだ。三島やマイルス・デービスには、人が真似したくなる何かがあるのだろう。そこへいくと森村さんは、真似しようと思わないような人たちばかりやっている」と水を向けると、「(私のやっていることは)高野豆腐をふやかしていくみたいな作業。時間がたってカチカチに乾燥したものを、森村というダシの利いた美味い汁で、いま一度生き生きと甦らせることだ」と応じていた。

(東京都写真美術館ほか 2010年3月11日−5月9日) 

詳しくはこちらから⇒     [動画]

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○世田谷産のコットン・糸・布でつくった、家族のいま

衣服デザイナーの眞田岳彦さんが、世田谷文化生活情報センター・生活工房で〈セタガヤーンプロジェクト〉をまとめて報告する、かなりユニークな展覧会を開いている。題して「I’m home ただいま 衣服−家族」。
このプロジェクトは家族のより良いあり方をさぐるフィールドワークとして、眞田さんと生活工房が3年前にスタートさせ、じっくりと育ててきたもの。
たとえばマンションのベランダや校庭など思い思いの場所で、1000人を超える人たちにコットンを栽培してもらう。とれた綿で世田谷特産の糸(セタガヤーン)を紡ぐ。それを使って布を織り、あつめてきた草木や土で染色する、とどこまでも生活感あふれる手づくりだ(写真)。
でき上がったのは約30体の衣服、すなわち人型となぜか一頭分の馬型。よくみると衣服にはさまざまな模様が施されている。これは眞田さんによると、家族の絆を象徴する大切な家紋なのだそうだ。
詳しくはこちらから⇒  オープニングの様子はこちらから⇒

[動画]
(生活工房 2010年2月27日-3月14日)

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○「ルノワール −伝統と革新」展

一般公開に先立ち1月19日、国立新美術館で報道内覧会が行われた。「何で私が報道?」などと思いつつ六本木へ向かう。だが会場に足を一歩踏み入れたとたん、ルノワールの柔らかい包みこむような世界に魂を吸いとられてしまった。
「アンリオ夫人」(写真)のいまにも掻き消えそうな薄描きに、期せずしてはかない愛おしさを感じる。画家はこの駆け出し女優に絶対恋していたのだ。生涯独身だったアンリオに“夫人”とは、中年男の途方もない妄想がからんでいるかもしれない。
コレクターのご子息「ポール・ムーニエ」お坊ちゃまも可愛い。そうそうさっき西野華子学芸員が「これは日本初公開です」といっておられたっけ。彼女は85点残らず頭にインプットしている様子だった。耳許で松坂慶子さんが優しくささやく。その明るい声が、ルノワールのいかにも幸せそうなイメージとぴったり重なり、こちらまで浮き浮きしてくるから不思議である。(音声ガイドですが)

(国立新美術館 2010年1月20日−4月5日)

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「EMERGING DIRECTOR’S ART FAIR ULTRA002」

EMERGING DIRECTOR’S ART FAIR ULTRA002長いタイトルに、まずはこのアートフェアに籠める関係者たちの、並々ならぬ熱意が感じられる。これまでのやり方を廃止し、ギャラリー・ディレクター個人を出展単位にしたという。会場のスペース配分もいたって平等だ。51人の出展者のなかにはディレクターより、むしろ素直にギャラリストとかキュレイターとお呼びした方がぴったりの方も、たくさんいらしたと思うけれど…。

さすがどのコーナーも若さが溢れていて、「お、これは」という驚きがあった。とくに目についたのは、来来/LaiRaiの宮村周子さんのパネル。青森で独り絵を描きつづけてきた神のぞみという、知られざる天才を発掘している。大きな丸い瞳の、可愛らしくも不気味な生き物たちが、コバルトブルーの空間を自由自在に泳ぎまわる姿はとても幻想的。いまやどこにもないプリミティヴな逞しさを、はちきれんばかり全身に漲らせていた。

(青山スパイラルガーデン・ホール 2009年10月29日−11月3日)  

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○「秋野芸術の万華鏡 謳う人体」

9月の連休を利用して秋野不矩美術館を訪れた。ずっと以前から、ぜひ行ってみたい美術館のひとつだったのだ。それにしても朝ふいに「行きたい」と思い立ち、三鷹駅から特別快速電車に飛び乗る。東京駅で新幹線に乗り換え、浜松で降りて、遠州鉄道の可愛らしい列車に揺られること25分。景色は突然天竜川沿いの渓谷に変貌した。
その緑濃い山の中腹に、藤森照信先生の「砦」は忽然と現れる。ぐるりと板塀をめぐらし、辺りを睥睨して屹立している。こちらもつい中世の古武士に変身したつもりで、砦の石垣(つまり板塀)にとりついてみようかしら、などと身構える。
お薦めエキジビション 「秋野芸術の万華鏡 謳う人体」秋野作品は素晴らしかった。人にも動物にも、異国の風物にも溢れんばかりの愛情が注がれている。これほどに生を愛し、いとおしむことができるものだろうか。精一杯ぎりぎりのところで生きたからこそ、その情は何の気取りもてらいもなく、太古の太陽のごとくに辺りを照らすのである。

(秋野不矩美術館 2009年8月11日−9月27日) 

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○「伊藤公象 KOSHO ITO works 1974-2009 秩序とカオス展」

伊藤公象といえば、70年代から土とともにさまざまな素材を使って、焼き物の新たな可能性に挑みつづけた人として知られる。そんな風にいうと、純然たる現代美術家かと思われがちだが、さにあらず。金沢の彫金の家に生まれたという経歴が示しているとおり、日本の伝統芸術(芸能)とは切っても切れない縁(えにし)で結ばれた人だ。だからこそ、陶芸を日本の情緒的な趣味の世界から解き放ち、思想や構造が火花を散らす国際動向のなかで、なおしっかりと自己主張できる表現へと叩き直すことができたのだろう。

お薦めエキジビション「伊藤公象 KOSHO ITO works 1974-2009 秩序とカオス展」しかもこの革命的難事業を、伊藤公象はほとんど独力で行ってきた。作品では群体によって個の限界を超える手法を獲得しながら、何とも皮肉な成り行きではある。会場でお見受けしたところ、写真のようにきわめてお元気だ。体力勝負にもみえる氏の創作活動だが、まだまだこれからの展開が期待できるというものである。

(東京都現代美術館 2009年8月1日−10月4日) 

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○「ゴーギャン展」

久方ぶりのゴーギャン展で、いやが上にも期待は高まる。今回の目玉は、何といっても大作「我々はどこから来たのか〜」(1897-98年)の登場だろう。主催者側の話では、この作品をボストン美術館から借り受ける出品交渉は、かなり難航したらしい。

人が自らの死を意識する。己の人生をふり返り、あたかも厳格な試験官がそれに評定を下すように、ひどくよそよそしく採点する。思わず口を衝いて出る言葉は、たいそう哲学的だ。

我々はどこから来たのか
我々は何者か
我々はどこへ行くのか

お薦めエキジビション 「ゴーギャン展」この難解な問いによって、ポール・ゴーギャンはこういいたかったのではなかろうか。時代が「我々」、すなわち彼へと突きつけた課題には、そのつど誠実に答えてきた。だがしかし、わが身をかえりみることなくやってきた、その努力の結果得られたものといえば、画壇をあげての無視と嘲笑、そして挙句のはての貧困や病苦だけだったのではないか。眼の感染症、右足首の骨折、湿疹、梅毒、たびたび襲ってくる心臓発作、愛娘アリーヌの死…。
暗くやりきれない想いが、老画家の胸を締めつける。「描き方がぞんざいで、仕上がっていない、と言われるかもしれない。人間、自分で自分をよく判断できないのは本当だ。しかし私は、この作品がこれまで描いたすべてのものよりすぐれているばかりか、今後これよりすぐれているものも、これと同様のものも、決して描くことはできまいと信じている。私は死を前にして全精力を傾け、ひどい悪条件に苦しみながら、情熱をこめてこれを描いた」(1898年、明治31、冬)。
誰に依頼されることもなくとり組まれた大作。建築という母体を持たない大壁画は、ゴーギャン自身がつぶやく問いかけさながらに、東京の梅雨空に、ぽつんと宙吊りになっているのだった。

(東京国立近代美術館 2009年7月3日−9月23日)          

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○「国宝 阿修羅展」

お薦めエキジビション 「国宝 阿修羅展」興福寺の創建1300年を記念して開かれた「国宝 阿修羅展」。両の手を虚空に振りかざす御仏の異形と、眉を寄せた神秘なたたずまいが評判を呼んで、このところちょっとしたブームとなっている。
それに引かれて出かけてはみたが、ご覧のとおり東京国立博物館・平成館から表玄関まで延々とつながる長蛇の列。会場に入るだけで、110分もかかってしまった。その間、となりのオバサンの日傘に突かれっぱなし。おまけにオバサンのところの家族関係が、細大漏らさず分かってしまうという有様。
展示の圧巻はやっぱり「阿修羅像」であった。小さなお像のまわりを群集が十重二十重に取り巻き、時計まわりにグルグル周回する様子は、かのメッカの神殿さえ髣髴させるものがある。(おっと、あちらは反時計まわりだったかな)。946,172人の記録は、日本美術としては過去最高だそうだ。これはちょっと、当分破れそうもありませんね。

九州国立博物館巡回 2009年7月14日(火)−9月27日(日) 

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○「ラウル・デュフィ展」

とにかく楽しい会場。生真面目な〈普通の絵〉が、どのようにしてデュフィ調になっていくかが見所だろう。今回の展示物は個人所蔵のものが多い。地元パリをはじめ、ロンドンやベルギーなどヨーロッパ各地から佳品があつめられている。そのためわが国初公開となったばかりでなく、もう二度とお目にかかれそうない作品もたくさん含まれている。
私がとくに注目したのは「青い背景のドレープ」(c.1925)や「黒い背景の花」(c.1930)といった純粋の装飾模様である。これらからは、自由気ままに描かれたと思われる彼の作品群が、実はわずかな誤差も許さない緻密な計算の上に成り立っていることがよく読み取れるのである。

三鷹市美術ギャラリー 2009年4月18日(土)−6月28日(日)

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