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とっても気になるあの展覧会へ「行ってきました」

 

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○ 「アートのお値段」

「アートのお値段」ナサニエル・カーン監督の映画「アートのお値段」をみる。アートマーケットで大成功を収めているが人々が次々に登場してきて、ただただ圧倒される思いであった。みているうちに、彼らにはある共通した特質があるように感じた。そもそも「お金とは一体何なのか」という概念をしっかりと修得し、確立できている人がほとんどという印象である。
実用性があまり期待できないアート作品を購入するということは、将来の資産を増やすという「投資」のルールからいっても、ほかのアイテムに比べて、不確実性すなわちリスクが格段に高いに違いないからだ。ただ資産の増え方も尋常ではないので、これに魅了される一部の富裕層がいることは容易に推測される。モノの値段など、はじめからあって無いようなものだと、彼らはちゃんと「資本主義の現実」を心得ているのだ。
実際この世には、膨大な資産を所有しかなりの程度自由に使えて、リスクの高いアート作品へもマネーを惜しみなく振り向けられる人がいるのは事実だ。昔ならハプスブルグ家のような王侯貴族ぐらいしか想像できまいが、いまの世の中ではITバブルに乗って、半ば自動的に何千億円もの資産が転がりこんでくる人だっているかもしれないではないか。
ステファン・エドリス夫妻など手練れのコレクターたちは、まるで株でも買うかのようにどの作品がいつ安く買えて、いつ高く売れるのかを目を皿のようにしてチェックしている。調査が精緻になるにつれ、選択の精度はしだいに上がっていく。狙った線に近い資産の増加が、毎度達成できていそうな熱っぽい雰囲気だ。おまけにオークションでアート作品を豪快に競り落とし、多数保持しているとなれば、社交界でもさぞ鼻が高いことだろう。
「現代アート」という特権的な冠がお好みのインガ・ルーベンスタインのような人ならば、多少値上がりに時間がかかったとしても決して焦ったりはしないだろう。コレクターとは、自身がアートの最終的保持者になることに少しの不安も畏れも感じない人々の意味である。コンセプトさえしっかりしていれば、いつか必ず評価されるという信念にブレはない。
だが、それにしてもである。目論み通りちゃんと値上がりした作品でも、ジェフリー・ダイチのようなやり手のギャラリストでさえ、期待のお値段で買い戻してくれるかどうかは、やってみなければ分からない。オークションの一騎打ちにも画商の確固たる保証にも、どこか演出の影がつきまとっているではないか。この映画にはそうした「投資にとって一番肝心なシーン」、すなわち出口戦略がどうやら決定的に欠如しているようなのだ。
そのかわり、こうした競合に特化した制作活動を試みるアーティストたちが、何人か紹介されている。ジェフ・クーンズ(写真)やダミアン・ハースト、ジョージ・コンドなどは市場でもて囃される作品=人気商品を制作する組織のオーナー兼リーダーとして、絶えずマーケットの動向を把握し、もっとも人気の作品を最適のタイミングで市場に供給し、しかも売却後も継続してその高値を維持するという神業をたっぷりとご披露してくれる。
こうして一見、何もかもが具合よくおさまっていくようなアートワールドだが、行き場を失ったブランド作品は、結局のところ自他の美術館へと流れこむほかはないのだった。(渋谷・ユーロスペースほか全国順次公開、〜令和1年8月)

★★★★★


○ 「明日の白日会展」

「明日の白日会展」第29回「明日の白日会展」が、8月22日に銀座でスタートした。写実の王道を歩む…と自負しているだけあって、出品作はいずれも緻密な描写の積み重ねによって、堅牢な画面に到達したものばかりである。それはそれでこの会の特質でもあるので、改めてどうのこうのということはない。
それより面白かったのは、同展のオープニングに先立ち実演された〈公開クロッキー〉の方である。果醐季乃子、佐藤陽也、西浦慎吾、山内大介、吉住裕美、吉成浩昭という六人の中堅作家が入れ代わり立ち代わり、十分ずつ60号のクロッキーを仕上げていく。身体全体の筋肉を瞬発的に使う作業なので、アスリート顔負けの準備運動からして凄い。
木炭、コンテ、鉛筆、水彩絵具、墨汁とさまざまな素材がとり上げられていったが、水彩絵具、墨汁はやはりインパクトの強い絵づくりを目指す助っ人技法のように思われた。それに対して木炭、コンテ、鉛筆などは、描いたり消したりと何度でも修正が利くので、モデルさん(写真)を前にして呻吟する制作の実態がより鮮明に浮かび上がってくる。その分だけ先の展開は読みづらくなるので、見ている方にとってはスリリングであることこの上ない。
輪郭線の振り下ろしを躊躇し、最後まで保留する作家がいるかと思うと、一瞬の気合で斬りつけるアーティストもいる。剣道の気合、あるいは一刀のもとに切り捨てるというこの国のシャープな刃(やいば)の美学的伝統が、こんなところでも生きているのかと驚くことしきりであった。
思わず、こんな面白いパフォーマンスならいつでもどこの会でも、是非やってほしいと希望を漏らしたら、吉成氏はしばらく考えた末突然「やれるものなら、やってみろ」と鋭く吐き捨てのである。やはり〈公開クロッキー〉は、ただならぬ緊張感を漂わせた武道のアート・ヴァージョンであるに違いなかった。(日本橋島屋6階美術画廊、〜平成30年8月28日)

★★★★★


○ 「ブリューゲル展」

「ブリューゲル展」フランドル絵画を代表する画家、ブリューゲルの展覧会である。だが詳しくみていくとピーテル・ブリューゲルを始祖として、その二人の息子たちおよび二人の孫と孫の伴侶、さらには何人かのひ孫たちの作品を一堂に並べた、ブリューゲル家代々の展覧会であることが分かってくる。(※)
この間おおよそ150年。室町時代末期から江戸時代の終わりまで、約四百年に渡ってわが国の画壇に君臨した狩野派ほどではないが、やはり並外れた画家たちの華やかで壮麗な歩みといっていいだろう。そのなかで「おやっ」と思わせるのが、ヤン一家の得意とした花の静物画である。
ヤン・ブリューゲル1世は、17世紀初頭にはすでに細密な「机上の花瓶に入ったチューリップと薔薇」(1615-20年、写真)を描いている。従ってこのころまでに「花のブリューゲル」と絶賛されることになる、ブリューゲル・ブランドのスタイルはほぼ完成していたとみていいだろう。
特徴は真っ暗な背景のなかから、ほぼ花だけを輝くように浮かび上がらせた独得のライティング画法だ。さまざまな花を寄せ集め、まるで標本図のように空間へ等間隔に配置していくやり方もユニークそのもの。そのなかには花弁に斑の入ったチューリップなど、当時のヨーロッパに登場してきてまだ間がないものや、品種改良された薔薇、ダリアといった貴重品も数多く含まれていた。一方花器やテーブルは比較的あっさりと扱われ、葉や茎に至ってはほとんど伏せられているといってもいい。
要するに、四季折々の珍しい花々が一目で楽しめるという手間暇のかかった凝った趣向が、存分に強調されているのだ。おまけにアントウェルペン周辺の新興貴族たちからは続々と注文が寄せられ、いずれも短日時のうちに納めることが求められた。そのため一族が中心となって、スビーディーに制作されていく工房のシステムが威力を発揮したのだ。
ヤン・ブリューゲル1世が、息子の2世にも手伝わせて仕上げたこの一点などは、さしずめブリューゲル工房の何たるかを如実に示す好例といっていいかもしれない。
※二人の息子とはピーテル・ブリューゲル2世とヤン・ブリューゲル1世。二人の孫とはヤンの腹違いの息子兄弟ヤン・ブリューゲル2世とアンブロシウス・ブリューゲル。孫の伴侶とはヤンの娘アンナの夫ダーフィット・テニールス2世。ひ孫たちとはヤン・ピーテル・ブリューゲル、アブラハム・ブリューゲル、ヤン・ファン・ケッセル1世などのことを指している。
(東京都美術館、〜平成30年4月1日)

★★★★★


○ 『北斎とジャポニスム』展

北斎とジャポニスム北斎の形態描写に世界中の関心があつまっている。生涯で三万点を超えるとも称される彼の作品は、江戸後期(1760-1849)の日本ばかりでなく、当時のヨーロッパへも多大なインパクトをあたえたようだ。それをあきれるほど丹念に拾い集めたのが、この展覧会である。葛飾北斎の原画(錦絵・摺物)と、それに影響を受けたと思われる西洋美術作品がところ狭しと並べられている。
改めて両者を見比べてみると、表現としてはあまりというかほとんど差がないのに、ある種微妙なニュアンスの喰い違いがあることに気づく。北斎漫画にみなぎっている怪しげな気分が、なぜかヨーロッパのエピゴーネンからはなかなか伝わってこないのだ。
北斎の有名な「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」(1830-33)にしても、丸く被いかぶさるような山型がなぞられるだけの場合が多い。波頭の先の、いまにも挑みかからんばかりの手や指先を思わせる飛沫の形状は、依然として見過ごされたままだ。つまり自然をひそかに擬人化した上で、そのどこかに「所作の毒」を加えていこうという浮世絵らしい面持ちまでをも引き継ごうという穿った作例は、皆無に近いのだ(写真カミーユ・クローデル「波」1897-1903)。爛熟の絶頂期を迎えた文化が示す特有の雰囲気は、ゆめゆめ見逃してはなるまい。
たとえば北斎漫画では「無礼講編」として、突然の強風に煽られて慌てふためく人々を扱った形態描写がある。必死で編み笠を掴みしゃがみこむ旅人、捲れ上がる裾を押さえてぐっとこらえる女、風に背中を向ける僧侶、とうとう天高く飛んでいってしまつた大事な紙片などなど。
さらには尻を丸出しにて「屁を放る奴」といった悪戯めいた、お道化半分の、人を小馬鹿にしたような絵も江戸期には頻出してくる。(これなど平仮名の「へ」の字代わりに、街中でも頻繁に掲示されていたのかもしれない。)
こうしたグロテスクを小気味よくデフォルメした諧謔味となると、それこそまともにとり上げるのは容易ではあるまい。ヨーロッパ美術が北斎から悪魔的鋭さを掴み出すには、「あまりにも日本的」と揶揄されたデカダンの巨星ビアズレーの登場まで、いましばらく待たねばならないのかもしれない。(国立西洋美術館、〜平成30年1月28日)

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○ 「ヨコハマトリエンナーレ2017」展

ヨコハマトリエンナーレ2017毎度のことながら、ヨコハマトリエンナーレのテーマの難解さは格別だ。前回は「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」。レイ・ブラッドベリのSF小説(1953年)からとられた焚書の話だったようだが、理解できた人は正直何人いたことだろう。それが今回はどうだ。島と星座とガラパゴス。語調もいいし、少々CMっぽいが、何ともスッキリしている。
定年退職後、世の中の堅いシステムによって、否も応もなくガラパゴス化させられてきた我が身としては「いよー!待ってました」とばかりに一声かけたくなるタイトルである。みなとみらいの街がゾウガメの背中にのっているシンボルイメージも悪くない。だがそうなると、展示の中身の方がいささか気になってくる。そんなわけでヨタヨタしながら横浜まで駆けつけた。
まず目を引いたのがドイツのクリスチャン・ヤンコフスキーの「重量級の歴史」(2013)だ。公共彫刻を人の力だけで持ち上げようとする風変わりなプロジェクト。重量挙げのポーランド代表チームが呼ばれ、ワルシャワ市内の歴史的野外彫刻群に挑戦した。しかし古いブロンズ像の重さはただごとではない。体の向きを変えながら何度もチャレンジするが、ビクともしないものがほとんどだ。
アイスランドのラグナル・キャルタンソン「ザ・ビジターズ」(2012)は、それに比べるとはるかに読み易い作品である。たくさんのミュージシャンがヘッドフォンから聴こえてくる音だけを頼りに、ひとり孤独に演奏を繰りひろげる。展示会場ではそのわがままなパフォーマンスが、微妙な重なりとズレをみせながらひとつの合奏曲になっていく。
こうした一見無意味な行為のうちに、人々は図らずも接続されていくのだろうか。半ば納得しかかったとき、突然巨大な洞窟がみえてきた。フィリピンのマーク・フスティニアーニが美術館の奥深くに出現させた「穴」(写真)だ。なるほど! この巨大な出口のなしのトンネルこそ、ガラパゴスの本当の姿だったのか。そうと分れば、遮二無二になかへ突っこんでいくほかはない。どのみち孤立からは逃れられなのだから。(横浜美術館・横浜赤レンガ倉庫1号館・横浜市開港記念会館、〜平成29年11月5日)

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○ 「アルチンボルド展」

「アルチンボルド展」 一連の出来事の引き金をひいたのは、サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)であったに相違あるまい。彼はテンペラ画「プリマヴェーラ/春」(1477-78年)でウェヌスを描くに当たり、装飾としてはすべて実在の花をそのままなぞることにしたからだ。
衣裳の花はいくぶん扁平になっていて、まだ布地の花柄模様にみえなくもない。だがウェヌスの襟は、完全に現物の花と葉で編み上げられたリング状のレイとなっている。花びらも葉も、当然それぞれ好き勝手に空間へ飛び出している。金髪を飾るティアラになると、ますますもって生々しい花卉の集積だ。優美ではあるが、野原で偶然に一本ずつ髪に挿しこんでいった遊びの感覚を、少しも外れるものではない。こうして<春の化身=ウェヌス>という文学的な寓意は、神や自然の人間化というルネサンス期特有の理念をもって、画面上に定着されたのだった。
ジュゼッペ・アルチンボルド(1526-93)はその85-86年後、ウィーン宮廷に仕える忠実な<王の画家>として、「四季」の連作を描きはじめる。このとき草花を衣裳と襟と髪の毛を飾る印象深い小道具としてだけでなく、マクシミリアン大公という男性の上半身すべてをこれで構成してみせるという、破天荒なアイデアを思いついたのである。逆にいえば、彼がボッティチェリに楯突くにはそれしか手がなかったのだ。
さて、その結果マクシミリアンはグッとダンディな男になったのだろうか。親しみ易さは首尾よく達成されたのだろうか。私は少なくともウェルトゥムヌス化、すなわち季節の変化と変容を統べる神の化身として、大公がハプスブルク帝国を象徴する意味合いは、ドンと大きくなった気がするのだ。
もはや生身の人間ではなく、自然を形づくっているさまざまな物質が寄り集まって、いついかなる季節からでも、またどんな分野であろうと帝国を自在にあらわせる万華鏡のような存在になったのではなかろうか。王が望んだのは人々の集合体であり、法律の知識であり、司書のアーカイブであり、そして美味しい肉やワインに満ちた豪勢な宮廷料理だったのだ。残念なことにボッティチェリが、そして当のアルチンボルド自身がもとめた、自由で奔放な芸術家像などでは決してなかったが。
この「春」(1563年)は、花々が競い合うハプスブルク帝国の最も美しいときを体現する国王像という意味合いで、はるばるスペイン王フェリペ2世の許へと遣わされる外交的贈物となったのだった。 (国立西洋美術館、〜平成29年9月24日)

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○ 岡本太郎と丹下健三:「岡本太郎×建築―衝突と協同のダイナミズム」展

岡本太郎と丹下健三大阪万博のシンボルゾーンとなった「お祭り広場」には、鉄パイプ製の大屋根が架けられていた。それを突き破るようにして、岡本太郎は「太陽の塔」(1970年)を立ち上げている。白い胴体からは左右に腕が伸び、仁王立ちとなった人間像にみえなくもない。とくに印象的なのは、胴体のなかほどに突如出現した丸い顔だ。タイトルからすると、嫌でも太陽そのものの表情と読めてしまう。
顔面の真ん中を縦に線が走り、左側が中央まで迫り出してきて、鼻や唇を形づくっている。唇は尖って盛り上がり、何かを主張していまにも喋りはじめんばかりの様子だ。眼(まなこ)はあたかも丸い餅が両サイドから引っ張られ、ちぎれてしまう直前のような楕円形をしている。
厳しく、きわめて鋭い目つきといっていい。相手をやや見上げるようにして、闘争の姿勢をとる。この挑みかかる形相を、両サイドからしっかりと支えているのが、真っ赤な炎を想わせるギザギザの稲妻の模様だった。
いまや誰知らぬ者のない容貌となった感のある「太陽の塔」だが、本展をみるとその原点はどうやら旧東京都庁舎の陶板壁画「日の壁」(写真1956年)にありそうである。同じ丹下健三が本体設計を担当し、その端正なモダニズムを内側から引っ掻きまわす起爆剤として、再び岡本太郎が呼び出されたいわば確信犯的デザインだからだ。
「日の壁」の中央には緑色の丸い顔がある。やや右上を見据える両眼は、真ん中を楔が縦に走る。左側が中央まで迫り出してきて、いまにも何ごとか喚きはじめんばかりの様子だ。眼(まなこ)は餅が引きちぎられたきわめて険しい目つきをしているといっていい。ただ顔の両サイドを飾る稲妻は、まだ顔のなかで緑と鋭い対立を形づくっているだけだ。
「太陽の塔」を語ろうとするとき、いつも動と静、アヴァンギャルドとエスタブリッシュされた主流派で対比される岡本と丹下だが、存外ふたりの相性は、それほどには悪くなかったのかもしれない。(川崎市岡本太郎美術館、〜平成29年7月2日)

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○ ブリューゲル「バベルの塔」展

ブリューゲル「バベルの塔」展1560年代のピーテル・ブリューゲル1世になったつもりで考えてみよう。テーマは旧約聖書の≪創世記≫第11章に書かれている物語だ。人類はその名声を高めようとして、天にも達するほどの巨大な塔を赤いレンガでつくりはじめる。神はこれをご覧になって、人類が自らを万物の創造主たる神だと勘違いしているとして、これを壊される。しかも以後作業ができないよう言語をバラバラに攪乱させてしまったというのだ。
この可笑しくも哀しい説話を絵にしようとすると@ 巨大な塔の建設風景、A 塔が壊れていく有り様、B 言葉が乱れて人類が困り果てている様子ぐらいしか、とり上げるべきシーンはないだろう。Bは一瞥でそれと分かる図柄にはなるまい。A は壊れ方が問題だ。神の意志とはいえ、雨風の破壊力では絵として物足らない。さりとて迫りくる巨大地震や津波の恐怖を、画面上にあらわすのは至難の業だ。
そこで採られたのがローマのコロッセオを思わせる、巨大建築物それ自体の怖ろしさを強調する手法ではないだろうか。螺旋状の階段が反時計まわりに渦を巻いていると錯覚させるような楕円形にしたり、時代様式の違う柱や窓をつけたり、内部をあえて空洞化しないなど、それらしき工夫は随所にみられる。
そして極めつけはウィーン美術史美術館の「バベルの塔」(1563年)も、ボイマンス・ファン・べーニンゲン美術館の「バベルの塔」(写真、1568年頃)も、建物それ自体がほんのわずかだが左へ傾いていることだろう。視覚的には5.5度(現在は3.99度)右へ傾いて、回転モーメントが働いているピサの斜塔に優るとも劣らない印象だ。
労働者たちが大型クレーンでレンガや漆喰を運び上げるにつれて、建物倒壊の危険性は間違いなく増大しているのだ。ちなみに後続のファン・ファルケンボルフといった画家たちが描いた「バベルの塔」(1594-95年)には、そうした心配はなさそうである。
(東京都美術館、〜平成29年7月2日)

★★★★★


◯ 草間弥生の真実

草間弥生の真実『草間弥生 わが永遠の魂』展に足を運び、改めてそこに伝説の前衛芸術家・草間弥生の真実をみた思いがする。圧倒されたのは、「圧倒されるはず」の大仕掛けな部屋ではない。穏やかで平和なキャッチフレーズにみえた水玉が、最初期の女性像(1939年)の顔全体をまるで痘痕のように被い尽くしていたからである。偶然これをみて驚いた精神科医の西丸四方は、以来彼女の作品を購入し、助言するようになったという。
水玉はほどなくして、痙攣し切ったギザギザ模様に周囲をかこまれるようになる。無数のソフト・スカルプチュア(すなわち男根)や「魂を燃やす閃光A.B.Q」(すなわち精子)に、びっしりととり囲まれた彼女の脅迫観念(オブセッション)はいかばかりのものであったろう。もはや幻覚の無限増殖を押し留めることなど、出来ようはずもない。
恐怖心が高まるにつれて、水玉はしだいに眼へと変貌しはじめる。「見るぞ、見られるぞ」とあらゆる方向から監視の視線が投げかけられる。1950年代の前半、コラージュの時期に彼女の眼は魂そのものにまで昇華して、宇宙へと漂いはじめる。鏡のなかで無数に瞬く星々。その中ほどで重力にも引力にも見放されたまま、魂は妖しい閃光を放ちつづけるのだ。この年代特有の沈潜した美を身にまといながら、やがて全てはブラックホールに呑みこまれていく定めなのだろうか。
こうして草間のアートは始めもなければ終わりもなく、進歩もなければ後退もない。ただその時々の欲動だけが存在する不思議なリズム(無限円環)へと辿り着く。魂の安息、あるいは「自己消滅」(写真1967年)への憬れ、はたまた美術アートへとスルリと姿を変えた不滅願望とでもいったらいいのだろうか。必死になってそれらにまとわりつくかのように、同じ行為が繰り返されていく。
一度画面の縁から描き始めると、グルグルまわして完成するまで筆を置こうとはしない。インフィニティ・ネット・ペインティングの線分にしろ、バイオモルフィズム(生命形態主義)のドットにしろ、彼女の場合にはいつだって同じ作業が反復されるばかりなのだ。
(国立新美術館、〜平成29年5月22日)

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○「並河靖之七宝」展

「並河靖之七宝」展美術アートのなかでも工芸作品は、とりわけ技術・技法が決定的に優劣を分かつ重要なポイントとなる。その意味で並河靖之(1845-1927)の有線七宝は、明治期最大の実績を挙げた輝かしき成功例として記憶されるだろう。
今回はその〔息を呑む〕ばかりの魅力が全開となり、ある種の諦めをも含んだ〔溜息として再び吐き出されて〕くるような思いに駆られる展示となった。これほどまでの高みに登ったアートが、何ゆえに短命で終わらざるを得なかったのか。時代とともに技術・技法は滅びて、いつしか忘れ去られてしまう。後に残るのは真に美術アートだけというお話なのかと。
以下は私が、美術館のなかを彷徨い歩いているあいだ中、反問しつづけた溜息である。
輝く黒地の生成/ガラス質釉薬の化学的生成への敬意。よって、完璧な流線形を強調する
曲がり部分の光沢・反射光がわけても見事であった。
黒地の余白/完璧な黒地がもたらす無限空間は、いつの時代も脱地上的な広がりを感じさ
せる。
模様パターンから絵画へ/左右対称ではなく、わが国美術工芸品独得の正面性と裏側の
ある図柄が印象的。(写真参照『四季花鳥図花瓶』1899)それによりメイン
モティーフが一層際立つ。写真術など明治期の多くの美術ジャンルで認
められた「絵画化」が、ここでも通奏低音となっているのは明らか。その
結果、模様パターンがしばしば陥る退屈さが、ここでは見事なまでに克服
されている。
有線技法への拘り/図柄を目いっぱい浮き立たせる視角効果は絶大。このようにして、 工芸
の近代化は成し遂げられていったのかもしれない。
細密性/緻密な手仕事というより、ほとんど顕微鏡的精度のテクノロジーといっていい。
アールヌーボー・アールデコ/やはり海外の美術動向への不断の関心と呼応が、いつまでも
古びを寄せつけない秘訣か。
仕上げの見事さ/丁寧な仕上げと滑らかな表面。すなわち砥石や鹿の角、木炭、木賊、弁
柄などを使った段階的研磨・艶出し技術は、日本のお家芸だった。
焼成/無限にくり返される焼成作業への情熱は、一体どこからやってくるのだろう。
装飾/付随する装飾品を生み出す彫金技術の確かさ。これこそ並河七宝の隠し味だと思う。
愛玩性の強調/作品をあえて小振りに留めた国際感覚とグローバル戦略。小さな不思議な
国からの「贈物」的イメージの創出は、何と見事なことか。そんな視点を
なぜに元武士たちが獲得できたのだろう。
万国博覧会に標的を定めた国際的販売戦略/販売店を構え、工場生産に踏み切った工芸の
輸出産業化は、国策ゆえの既定路線であったのだろうか。
古今の図柄の活用/正倉院御物をも想起させるシルクロード的異国趣味。古代的描写によ
る花、蝶、鳥、神獣などの巧みな引用。江戸趣味を髣髴させる洒脱・粋・
韜晦の復活。そこには言葉にならない明治期特有の呼吸があったのかも
しれない。
金属地の隠蔽/口を小さくしたり、蓋をつけることによって中をみせない工夫が感じとれる。
皿よりも鉢よりも、どこまでも壺を溺愛して止まない形態嗜好は当然の
帰結というべきか。
シャープな形態/風船に空気を入れ、膨らませて成形したとしか思えない不思議で魅力的
な流線形。下手に形を意識させない分だけ、なお一層巧みということなの
だろう。

(東京都庭園美術館、〜平成29年4月9日) 

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