田島信夫略年譜 |
昭和36年(1961)
2月5日 |
渋谷区日赤病院に生まれる。品川区北品川で成長。何ごとにもすばしっこく反応し、体を動かすことが人一倍好きな子供であった。感性はするどく1歳まで3日に1度は発熱。NHKの赤ちゃんコンクールもそれで欠場した。 |
昭和42年(1967) |
品川区立品川小学校へ入学。 |
昭和46年(1971) |
世田谷区岡本に家を新築し転居する。 |
昭和48年(1973) |
武蔵工業大学付属中学校へ入学。このころから詩や俳句に興味をもつようになる。また世界のサッカー書をあつめ、「僕は日本にサッカーを導入したい」が口癖だった。 |
昭和51年(1976) |
画家に絵の手ほどきを受けた後、新宿美術学院受講。美術への関心が急速に高まっていった。 |
昭和54年(1979) |
東京芸術大学を志すも失敗。その後も失敗がつづき、深い挫折感に襲われる。この時期いろいろな精神的葛藤がダブって、ノートに「自殺に興味を持つ」と書きつけるようになる。 |
昭和57年(1982) |
母方の祖父を頼って北海道に渡り、知人宅に下宿し、FAM美術研究所で引きつづき絵の勉学にいそしむ。このころ精力的に制作。しかし依然として周囲の理解が得られぬまま、帰京することになった。 |
昭和58年(1983) |
東京芸術大学受験をあきらめる。大学教育とは別に、自身で芸術の道を極めようと決意し、自宅の庭先でそれまでの作品をすべて焼き捨てる。「方向もつかめぬまま、いつ沈むか分からない泥舟に乗っているようなオレなんだ」とつぶやきながら、独り模索を続けるゼロからのスタートだった。だがそれはやがて、彼独得の力強い描法となって人物画や抽象画に結実していく。美術団体やグループには所属せず、ひたすら画業に専念。また作品発表の機会はほとんど持たなかったが、世田谷ボロ市にだけは「ソックスシリーズ」を出品した。 |
平成5年(1993)
2月9日 |
32歳と4日で自らこの世を去る。絶筆は木の下で、家族が楽しげに酒を酌み交わしている「立春図」だ。夜遅くまで筆を走らせ、母・信子が学んでいる心の勉強会にも進んで申し込み、出席した後のことであった。 |
平成8年(1996) |
遺稿画集「田島信夫 魂の叫び−メッセージと遺作集」をジェイシーエス出版より刊行。 |
平成20年(2008)
4月 |
世田谷区岡本に「田島信夫ギャラリィ」が完成。彼の作品を常設展示する場としてスタートする。 |